ある、世間が浮かれた空気に満たされる前の日のこと。
「ふっふっふ〜!これで僕はユダとっ…ぐふっ、ふふふ〜」
シヴァは頭頂部からチョロリと出たアホ毛を揺らしながら、奇声をあげていた。
その姿は、なまじ顔立ちが幼く可愛らしいがために、余計に不気味だった。
今にも鼻血を吹き出しそうなほど脂下がった顔は、とてもじゃないが他人には見せれない。他人どころか身内にだって見せれない。
勿論、同室の彼にだって。
それほどに、シヴァの顔を崩す原因は相変わらずユダだった。
明日はバレンタインデー。
愛を告白する日だ。否、世界中そうだと決まっているわけではないが、とりあえずこの国では概ねそういう扱いだった。
バレンタインデーの起源となった司教に土下座して謝るべきじゃなかろうかと思わざるを得ないくらい、シヴァは浮かれきっていた。
ユダに贈り物をするためにこっそり学校の調理室を拝借し、濃厚なチョコレートケーキを作ったのだ。
家庭科の成績は悪くない。むしろ良い方で、レイには敵わなくてもシンには絶対に負けない。――シンと比べたら誰だって勝ててしまうが、ユダの想いを一身に受けているシンを目の敵にしているシヴァにとってこれはお約束であった。
味には自信がある。何度も何度も練習をし、金銭面の許す限り良い材料を使った。
当初の予定よりサイズは小さくなってしまったが、上出来だ。
出来たてを食べて貰いたい衝動にも駆られるが、冷めた方がより濃厚な味になるのだからここは我慢のしどころだ。
「待っててね〜!ユダ〜!!」
「ユダ殿でしたらとっくに寮に戻りましたよ、シヴァ…」
「…っ!?」
唐突に背後にまわった人物の声に、シヴァは肩をビクリと震わせる。この声の主は美少女然とした見掛けに反した冷たい視線を自分に向けているに違いない。
「ここで何をしているのですか?」
予想通りの冷めた声が聞こえる。
シヴァの背中に冷や汗が広がる。知られてはいけない人物ナンバー2に見つかってしまった。――ナンバー1は勿論ユダだ。
どう答えれば良いのだろう。どうせ自分の嘘なんて、彼にはあっさり見破られてしまう。
この時点で、教室中に蔓延している甘い匂いで気付いているのだろうが敢えてれを聞いてくるあたり性格が悪い。
手にはラッピング用のリボンがあり、もう隠しようがない。
「はぁっ…随分と下らない事をしているようですね」
「下らないって何だよッ!パンドラ!!僕はユダのために一生懸命チョコレートケーキを作ってたんだぞ!!途中で面白がったマヤに邪魔されて、お腹空いたとか何とか言ったガイにちょっと食べられちゃったけど!!」
―お陰で当初の予定より、サイズが小さい。
小馬鹿にする様なパンドラの言葉と態度に腹が立ち、思わず自ら全部をぶちまける。
さっきまでユダへの想いで浮かれていた気分は、一気に萎んでしまった。
気分が悪い。
露骨にそう態度に出ると、パンドラの顔はより冷たくなっていく。
「まあ、予想はついてましたが…」
シヴァがバレンタインデーに、ユダに贈り物をしないわけがない。こうも予想通りの行動をして飽きないのかと、言外にパンドラは訴えて来る。
材料の残りに目をやるパンドラに、シヴァは青ざめた。
「シヴァ…」
「あのっ…これは…っ」
必死に見られたものを背後に隠そうとするが、その前にパンドラの手が伸びた。
「教室の無断使用の上に、学内への酒の持ち込みですか…これはゼウス先生にも話を通さなくてはなりませんね」
パンドラの細い指先が摘んだものは、風味付けに製菓用の酒だった。量は少ないが度数は高い。
調理実習で調理用の酒を使用するなら、教師の許可と監督がある。
だが、シヴァは何の許可もなく、勝手に使用している。これでは、折角作ったケーキは没収、シヴァにも何かしらの処分が下るだろう。
シヴァの目の前が真っ暗になる。ユダのために作ったものが無駄になってしまう。
ただユダに喜んで貰うために作って、気持ちを少しでも受け入れて欲しくて頑張ったのに全ては水の泡だ。
パンドラにバレてしまった。ただそれだけのために。
自分が悪いのだと認めるのが嫌で、シヴァは涙の滲んだ恨みがましい視線をパンドラに向けた。
「そんな目で見ないでください…これでは私が悪者のようではありませんか」
「……」
“悪者よう”ではなく、シヴァにとって間違いなくパンドラは悪者だった。
例え、パンドラに非はなくとも、シヴァには悪者だった。否、誰かを悪者にしなければ堪らなかった。
「はぁ…仕方ありませんね」
自分を睨み付けるシヴァに、パンドラは深々と溜め息を吐いた。
呆れる様な口調に腹が立つ。どうせ無駄だとでも言いたいのだろう。
ユダに想いは届かないから諦めろとか、不毛な片思いは滑稽だとか、そんな言葉をまた耳にするのかと思ったら、シヴァの顔は歪んだ。
酒の入った小瓶をテーブルに置いたパンドラの指先が頬に触れ、シヴァは怯えるように一歩後ろに下がる。
パンドラがどこか不機嫌に見えた。けれど、すぐに表情がうさん臭い笑顔に変わっていく。
「そんな顔のまま先生に引き渡したら、私がいじめてしまったみたいではないで
すか…」
「……」
無言の抵抗。
パンドラの指先は彼の苛立ちを伝えるまま、だんまりを決め込んだシヴァの頬を掴んだ。
「可愛い顔が台無しですよ?」
「いっ、いひゃいっ!」
力一杯つねられて、シヴァの目からまた涙が零れる。
上へ下へ横へ。果ては斜めにまで引っ張り、シヴァを痛め付ける。
それが長々と1分も続くものだから、終わった頃にはシヴァの頬に赤い痕がついていた。
「なっ、何するんだよっ!痛いじゃないかァッ!!」
「ほら可愛い」
やっと開放されて、文句を口にするシヴァにこの発言。パンドラの意図が読めない。
このままゼウスに引き渡すつもりだろうに、頬にこんな痕をつけるなんて信じられなかった。
理由を聞かれたところで答えることなんて出来やしないじゃないか。
「そんなにユダ殿に贈り物をしたいのですか?」
「当たり前だろ!?」
必死になっているシヴァを見ておきながら、その発言はないだろう。
シヴァがどれだけユダを慕っているか知っているくせに。
「ねぇ、シヴァ…ひとつ提案があります」
「何だよ…もったいぶらずに早く言えよ!」
苛立ちを隠せず、再び睨み付けてくるシヴァにパンドラはその言葉を口にした。
「私にもチョコをくださいませんか?」
「はぁッ!?」
予想外の言葉に、シヴァは声を荒げた。
ユダへのチョコレートケーキを没収させようとしている張本人が何を言っているのだろう。シヴァがふざくるなと言う前に、パンドラは話の続きを持ち出した。
「ただでいただけるとは思ってませんよ?……学校内への酒の持ち込みと調理室の無断使用、もし私にもいただけるなら、このことは誰にも言いません……如何
ですか?」
「本当!?」
「ただし、手作りチョコ限定ですが…」
「えぇっ!?」
パンドラの言葉に一喜一憂。
チョコレート程度で許して貰えるならと喜んだのも束の間、手作り限定。
自分の手作りチョコレートは全てユダに渡したい。パンドラなんかにあげることは出来ない。
それに新しく作るにしたって、もう材料なんて残っていないし、もう門限間近だ。
「ユダ殿へのチョコレート、没収されても良いのですか?」
「うっ!!」
それだけは絶対に嫌だった。
けれども、材料はどう考えても足りない。
シヴァの背に冷や汗が流れる。
どうにか条件を変えて貰えやしないだろうか。手作りでなければ、帰りがけに急いで買いに行くことも出来なくはない。
そう算段するシヴァに、パンドラは無情にも言い放つ。
「明日までに私に手作りチョコレートを渡していただければ、この件は黙っています。後からバラすなんてことはしません……ですが、もし渡されなかった場合
…わかっていますよね?」
「あっ、パンドラっ、ちょっと待っ…」
「では、私も時間がありませんので…シヴァも早く片付けて、気をつけて寮に戻るのですよ?」
「あぁ〜っ」
呼び止めようとするシヴァを気にも止めず、パンドラは急ぎ足で調理室を後にした。取り付く島もなかった。
あげた声は何とも間抜け。
そんなことよりも重大なのは、どうやって用意するかだ。
頭を抱えて悩み込むシヴァに、パンドラの真意なんて見えやしなかった。
夜が明けて、訪れたのはバレンタインデー当日。
いつもより早くに起きたシヴァは、顔を洗いに行く途中、ガイ達と擦れ違った。
部の朝練に出るガイ達は、今日はいくつチョコレートを貰えるかなど、他愛のない話をしていた。
昨日、人の作っているチョコレートを食べておいて、まだ貰うつもりなのか。
シヴァは苛立ちと半ば八つ当たりの気持ちを込めて、嫌味を吐いてやり例の如く口論を起こした。
たまたま通り掛かったカサンドラの執り成しで、シヴァ達が口論を始めた廊下の前の部屋の住人は睡眠時間を延長出来た。
まだ憤慨しているガイをゴウが引きずっていくのを見送ると、シヴァは自分の部屋へと戻るべく足を進めた。
クスリと人の悪い笑みを浮かべたカサンドラの心の内を言及しないまま。
部屋に戻ったシヴァは、用意していた包みを手に取り鼻息を荒くした。
同室のユダは夜遅くまで険しい顔で机へ向かっていた。どうしたのかと尋ねたら期末テストの範囲を今の内にさらっておきたいと彼は言っていた。邪魔をしたら
悪いと昨晩はシヴァが先に床に就いたが、今朝起きたらユダの方が先に起きていた。――まさかユダが完徹をしていただなんて、シヴァは知るよしもない。
今も机に向かっている。今の内に渡さなければ、渡せない予感がする。だから、今の内に渡して置かなければ。
「ゆっ、ゆ、ユダっ…!」
「……あぁ…どうした?」
(うわぁっ!気怠げな感じも格好良いしセクシーだし、ユダぁ……って違ーうッ!!!!)
ユダに見とれて鼻血を吹いている場合ではない。鼻血を吹いているところなんてユダには見せられないし、早く渡さなければならないと言うのに、これではよくない。
意を決して、出来るだけ可愛らしい仕種でシヴァは手を伸ばした。
「がっ、頑張って作ったんだ!…あの、その…食べて、もらえないかな?」
ちゃんと言えた。ただそれだけだというのに、シヴァは思わず心の中でガッツポーズを決めた。
鼻血を出さなかっただけでも上々だ。きっとユダは受け取ってくれるに違いないと、根拠のない自信まで浮かんでくるが、いつものバターンから鑑みるにユダは適当なことを言って受け取らないのが関の山。
俯き、ドキドキしながらユダの言葉を待っていると、言葉より先に手の平から贈り物が消えるのを感じた。
「ぇ…?」
「ありがとう…シヴァ…」
次に届いたのは優しいユダの声。
おかしい。これは夢ではないのか。もしくはいつもの自分の妄想であるとか、ユダを思うあまりに見た幻覚だとかそんなものでは。
シヴァは昨日パンドラに引っ張られた頬を、自らの手で引っ張る。
痛い。夢じゃない。
「どうした?」
「ぇっ、あっ…何でもないよ!ユダが貰ってくれるなんて、夢みたいで…」
感動で今すぐうち震えたいが、ユダにそんな痴態を見せる訳にもいかず、何とか堪えて笑顔を見せる。
「シンに貰ったチョコを食べた後にじっくりいただくよ」
「あ、うんっ」
シンの方を優先されるのは悔しくて堪らないけれど、シンの次には食べて貰える。今はそれだけで嬉しい。いずれ、シンより先に食べて貰えれば良い。
シヴァは嬉しさのあまり、何もかもポジティブな解釈になっていた。
シンごときが自分のチョコレートケーキの味を越えられるわけがない。そう思っていたというのもあるけれど。――ユダを見つめるあまり、彼の机の上に乗っている、何やらガサガサと動く物体には気付いていなかった。
それがシンからユダへの贈り物だというのに。
「では…まずはシンがくれ…くれた…チョコレート?を…」
「ゆ、ユダ…?」
何で、ユダは震えているのだろう。
(何で…疑問系?)
シンの方を手にしたユダの言葉にシヴァは首を傾げた。
シンから貰ったから嬉しくて震えている訳でもないだろう。
よく見て見ると、ユダの手自体が震えているのではない。――シンから貰ったというチョコレート?が震えていたのだ。
「ユダ?本当にそれ大丈夫なの…?」
「だ、大丈夫…とは失礼なことを、言う…っ」
ユダの言葉を遮るように、彼の手の平に収まった物体はより一層震え出した。それはもう、あからさまに。ユダの顔色も見る見る内に変わっていく。冷や汗も流
して、その姿はあまりにも痛々しい。
シンが愛しくて堪らないユダでも、流石にこれは恐ろしいらしい。――何しろ、このチョコレート?は昨晩からずっと振動していたのだから。
「シン…お前の想いはっ、しかと受け取ったあぁぁぁぁっ!」
「ユダぁぁぁぁっ!?」
ユダの手が、包みを豪快に破った。
ユダの叫び声とともに、シヴァも彼が心配で叫び上がる。
あのチョコレートらしい物体は危険だ。何やら怪獣の頭みたいなものが飛び出ているは、その頭が『キシャーッ』等と鳴き声をあげて蠢いているは、どうみてもチョコレートとしておかしい色をしている。
こんなものを食べたらユダが死んでしまう。
止めようとしたがもうすでに遅く、チョコレートらしい物体から飛び出た双頭の片方を口に含んでいた。
それと同時に、部屋のドアが勢いよく開けられる。ドアを開けたのはルカとレイ。ふたりとも必死の形相だったが、時すでに遅し。
ユダの魂は半分抜け出ていた。
「「間に合わなかった──────ッ!!!」」
ルカとレイの絶叫と、ユダの名を必死に呼ぶシヴァの声が重なり、寮に木霊した。
その後、マヤによって119番通報がなされた。
救急隊員も、原因の食物に顔を青ざめさせていた。これは何かと尋ねられたら、ユダ曰く『チョコレート?』としか言えなかった。
ユダは一命を取り留めたそうだが、原因を作った張本人はユダと顔を合わせるのが恥ずかしくて早々に寮を出て、静かに図書館で本を読んでいた。そこを発見され、教師に呼び出されていた。
しかし、原因を追及されても、シンにとってわざとではなく、無自覚のことだったらしい。――不器用の一言では済まされない。
結局、シヴァのチョコレートケーキはバレンタインデーに食べて貰えることはなく、ユダの机の上で消費期限を向かえることになる。
「はぁっ…結局ユダに食べて貰えなかった…てゆーか、ユダ、本当に大丈夫かな…?」
シヴァは校舎裏の木陰で膝を抱え溜め息を吐いていた。
ユダは受け取ってくれたというのに、食べて貰えないなんてあんまりだ。
これから1週間は集中治療を行うそうだから、その間は寮の部屋ではひとりきり。
ユダには会えない。
ユダについて病院まで行きたかったが、ユダの親友であるルカがついていき、自分はレイに止められ学校に来ている。
心配で授業は上の空だった。お陰でゼウスには雷を落とされ、課題を出された。
どれもこれも、事実シンのせいだ。
腹が立って仕方ないが、今はシンなんかにかまけている暇はない。
本当ならば、パンドラに会わなければならない。
昨日の約束。
手作りチョコレートを渡さなければ、ゼウスに自分が行った悪行を全てバラすと、パンドラそう脅迫めいたことを言った。
何で手作りでなければならないのか、でなければ苦労はしなかった。
寮の中で残ったデコレーション用のホワイトチョコレートを刻んだ。同じくデコレーション用に用意したクッキーを自動販売機で買った牛乳で浸して、溶かした
ホワイトチョコレートと牛乳を混ぜたものを容器で重ねて冷やした。
本当に有り合わせのもの。寮の食堂をホンの少しでも借りられたのは幸運だった。
何とか形には出来たけれど、本当に菓子作りをしたことのない少女が無理をして作ったもののようで、何となくシヴァのプライド的に納得がいかない。
それに、そんな大層なものを作るつもりなど更々にないのだが、こんな簡単なものだからパンドラがガッカリするのを想像したら、胸の辺りがもやもやする。
「何をおひとりで百面相をなさっているのですか?シヴァ殿…」
「うわぁっ…カサンドラ!?」
急に話しかけられ、シヴァの腰が浮く。すぐ隣りにいるカサンドラに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。
綺麗な顔が近い、近過ぎる。
「そっ、そんな近くに寄るな!!」
「何か不都合でも?」
「だからぁっ!!」
常識から見て、この至近距離はあまりにも近過ぎるのではないのか。
鼻先と鼻先がホンの数センチしか離れていない。
「おや…顔が真っ赤ですよ?熱でもあるんですか?」
「ちがっ…」
惑わすようなカサンドラの物言いに、シヴァは翻弄される。
こんなに近付かれても、キラやゴウ相手だったらこんな風にはならない。――何故なら彼らは自分にこんな瞳を向けない。
「まぁ…からかうのはここらへんにしておきましょう…」
「からかうなっ!」
「ところでシヴァ殿…」
「無視するなっ!!」
人の話を聞かない人間の相手をするのは、昨日と今日で2回目だ。
カサンドラはシヴァの隣りに腰を落ち着かせ、意味あり気な視線を向けて来る。
自分の主張を無視するシヴァはカサンドラに憤りを覚えたが、結局彼の言葉に耳を傾けた。どうせ言っても、カサンドラは人の話を聞かないし、何か嫌な予感がした。
「昨日の放課後…寮に帰るまでの間、何をしておいででしたか…?」
「…っ…ぁ」
「答えられないようなことでも?」
―カサンドラは自分が何をしていたのか知っている。
シヴァはそう直感した。嫌な予感はこれだったのだ。
普段だったら、お前には関係ないと一蹴出来る。だが、今は後ろめたい気持ちがある。それが表に出てしまったのだろうか。
動揺を隠せないシヴァの沈黙を、肯定と判断した。
「私の記憶が正しければあなたはHRの後、真っ直ぐ調理室へ向かった……あなたが手に抱えているものを見れば、何をしていたのか簡単に予想が出来る…」
見透かすような瞳が向けられる。
もうユダへの贈り物は彼に渡してしまった。
もう没収されることもないのだが、それでも学園側に知られたらどうなるのだうか。
カサンドラのことだ。悪さをする他の生徒を摘発して、教師からの自分の評価を上げたいのだろう。
自分がしたことは悪いことだが、他人に利用されるのはごめんだ。
「ねぇ…シヴァ殿…どなたにさしあげるつもりだったのですか?」
「…カサ、ンドラ…?」
カサンドラの手の平がシヴァの頬に触れる。離れた筈の顔が再び近付き、吐息が鼻にかかる。
近過ぎて、やっと引いた顔の赤みが戻っていく。
唇が触れてしまいそうなほど近付かれて、逃げたくても逃げられない。
「まさか、ッ…イタッ!!」
「うわぁっ!!」
キスされるのではないかと思うくらい近付いた顔が遠くに離れる。
助かった。本当にキスされたらどうしようと恐怖でドキドキしていたところだった。自分の唇を捧げる相手はユダだけだ。
それはともかく、シヴァはまだ動悸が治まらない胸に手を当て、俯いた顔を上に向けると苦痛に歪んだカサンドラの顔と、見るからに不機嫌なのに笑顔を浮かべたパンドラの姿が見えた。
「パンドラ殿!痛い!痛いです!放してくださいッ!」
「……カサンドラ…何をしているのですか?」
「イタッ!っ、あなたにお話する話ではな…イタタタタッ!!」
「そうですか、話す気はないのですね…なら、私もあなたの話を聞くつもりはありません」
パンドラの手がカサンドラの髪を鷲掴んでいる。無造作に掴まれたそれはあちらこちらの方向から引っ張られ、数本、否、十数本抜けていた。
シヴァの耳にも届くぐらいブチブチと抜けるカサンドラの髪に同情が禁じ得ない。
カサンドラに話させるために、パンドラはわざと力強く髪を引っ張る。カサンドラが涙目になっているのに、パンドラは手を離さない。
正直助かったが、怖い。――しかも、パンドラは顔が笑顔なのにもかかわらず、声が笑っていないため、余計に。
「ほら、早く言わないと…禿頭にはなりたくないでしょう…?」
「わーっ!ちょっとパンドラ!いくらなんでもカサンドラが可哀相だよ!!」
思わずシヴァは制止の声を上げる。
カサンドラの泣きが入った顔なんて、シヴァは今まで見たことがなかった。シヴァがあまりカサンドラと関わらないからためではなく、単純に見たことのある人物の方が少ないからだろう。
「では、あなたに聞きましょう、シヴァ…カサンドラはあなたに何をしていまし
たか?」
「えーっと…」
「シヴァ殿!悩んでないで早ッ、痛ッ!」
「私はシヴァに聞いているんですよ、カサンドラ…」
より一層力を強めるパンドラに、シヴァは顔を青ざめさせた。
「何もなかったから!何もなかったからぁ!!」
「…本当に?」
「本当だってばっ!」
何でそんなに不機嫌なのか、シヴァにはわからなかった。
シヴァの疑問を余所に、パンドラはカサンドラの髪から手を離した。彼の手から、ハラハラと長めの髪が舞い散った。
酷い。
「ひ、酷い目に会いました…っ」
「話はまだ終わっていませんよ?カサンドラ……何をしていたのですか?」
「別に、何も…っ…今、シヴァ殿がそう言っていたではありませんか…!」
まだ涙目になっているカサンドラがいつもの余裕を忘れ、パンドラを睨む。よほど痛かったらしく、後頭部を擦り、眉を寄せていた。
パンドラはそんなことはお構いなしに、カサンドラを見下した。
「私の目にはいわれない理由でシヴァを恐喝しようとしてるように見ました…だからこそ、こうして止めに入ったのですが?」
「いわれない、なんてとんでもない…そのことは事じ」
「ならば、何故その場で指摘しなかったのですか?」
もし、カサンドラの言葉が事実ならその場で指摘するのが適切だろう。
カサンドラの言葉が事実だということは当の本人であるシヴァも内心認めている。
パンドラもそれを知っていて、それを理由にシヴァに交換条件を飲ませていたではないか。
パンドラの真意が見えず、シヴァは目をしばたかせた。
「くっ…」
「何をしようとしていたかは知りませんが…これ以上のことをしようとしたなら、私はそれこそ先生に報告しなければなりませんが…カサンドラ?」
パンドラが現れた時からカサンドラに不利な舞台だった。
カサンドラは悔しそうな顔をしたまま無言で立ち去る。彼の背中を冷たい目で見るパンドラをシヴァは理解出来ず、見つめた。
自分を最初に脅かしたのはパンドラだ。
別に自分の獲物が他人に持って行かれそうになったからといって、彼が助けてくれるとは思えなかった。
所詮、交換条件はシヴァが作ったショボいチョコレートなのだから。
一歩間違えると、昨日の時点で知っていたにもかかわらず学園側に報告しなかった咎を責められるのではないだろうか。
「ふっふっふ〜!これで僕はユダとっ…ぐふっ、ふふふ〜」
シヴァは頭頂部からチョロリと出たアホ毛を揺らしながら、奇声をあげていた。
その姿は、なまじ顔立ちが幼く可愛らしいがために、余計に不気味だった。
今にも鼻血を吹き出しそうなほど脂下がった顔は、とてもじゃないが他人には見せれない。他人どころか身内にだって見せれない。
勿論、同室の彼にだって。
それほどに、シヴァの顔を崩す原因は相変わらずユダだった。
明日はバレンタインデー。
愛を告白する日だ。否、世界中そうだと決まっているわけではないが、とりあえずこの国では概ねそういう扱いだった。
バレンタインデーの起源となった司教に土下座して謝るべきじゃなかろうかと思わざるを得ないくらい、シヴァは浮かれきっていた。
ユダに贈り物をするためにこっそり学校の調理室を拝借し、濃厚なチョコレートケーキを作ったのだ。
家庭科の成績は悪くない。むしろ良い方で、レイには敵わなくてもシンには絶対に負けない。――シンと比べたら誰だって勝ててしまうが、ユダの想いを一身に受けているシンを目の敵にしているシヴァにとってこれはお約束であった。
味には自信がある。何度も何度も練習をし、金銭面の許す限り良い材料を使った。
当初の予定よりサイズは小さくなってしまったが、上出来だ。
出来たてを食べて貰いたい衝動にも駆られるが、冷めた方がより濃厚な味になるのだからここは我慢のしどころだ。
「待っててね〜!ユダ〜!!」
「ユダ殿でしたらとっくに寮に戻りましたよ、シヴァ…」
「…っ!?」
唐突に背後にまわった人物の声に、シヴァは肩をビクリと震わせる。この声の主は美少女然とした見掛けに反した冷たい視線を自分に向けているに違いない。
「ここで何をしているのですか?」
予想通りの冷めた声が聞こえる。
シヴァの背中に冷や汗が広がる。知られてはいけない人物ナンバー2に見つかってしまった。――ナンバー1は勿論ユダだ。
どう答えれば良いのだろう。どうせ自分の嘘なんて、彼にはあっさり見破られてしまう。
この時点で、教室中に蔓延している甘い匂いで気付いているのだろうが敢えてれを聞いてくるあたり性格が悪い。
手にはラッピング用のリボンがあり、もう隠しようがない。
「はぁっ…随分と下らない事をしているようですね」
「下らないって何だよッ!パンドラ!!僕はユダのために一生懸命チョコレートケーキを作ってたんだぞ!!途中で面白がったマヤに邪魔されて、お腹空いたとか何とか言ったガイにちょっと食べられちゃったけど!!」
―お陰で当初の予定より、サイズが小さい。
小馬鹿にする様なパンドラの言葉と態度に腹が立ち、思わず自ら全部をぶちまける。
さっきまでユダへの想いで浮かれていた気分は、一気に萎んでしまった。
気分が悪い。
露骨にそう態度に出ると、パンドラの顔はより冷たくなっていく。
「まあ、予想はついてましたが…」
シヴァがバレンタインデーに、ユダに贈り物をしないわけがない。こうも予想通りの行動をして飽きないのかと、言外にパンドラは訴えて来る。
材料の残りに目をやるパンドラに、シヴァは青ざめた。
「シヴァ…」
「あのっ…これは…っ」
必死に見られたものを背後に隠そうとするが、その前にパンドラの手が伸びた。
「教室の無断使用の上に、学内への酒の持ち込みですか…これはゼウス先生にも話を通さなくてはなりませんね」
パンドラの細い指先が摘んだものは、風味付けに製菓用の酒だった。量は少ないが度数は高い。
調理実習で調理用の酒を使用するなら、教師の許可と監督がある。
だが、シヴァは何の許可もなく、勝手に使用している。これでは、折角作ったケーキは没収、シヴァにも何かしらの処分が下るだろう。
シヴァの目の前が真っ暗になる。ユダのために作ったものが無駄になってしまう。
ただユダに喜んで貰うために作って、気持ちを少しでも受け入れて欲しくて頑張ったのに全ては水の泡だ。
パンドラにバレてしまった。ただそれだけのために。
自分が悪いのだと認めるのが嫌で、シヴァは涙の滲んだ恨みがましい視線をパンドラに向けた。
「そんな目で見ないでください…これでは私が悪者のようではありませんか」
「……」
“悪者よう”ではなく、シヴァにとって間違いなくパンドラは悪者だった。
例え、パンドラに非はなくとも、シヴァには悪者だった。否、誰かを悪者にしなければ堪らなかった。
「はぁ…仕方ありませんね」
自分を睨み付けるシヴァに、パンドラは深々と溜め息を吐いた。
呆れる様な口調に腹が立つ。どうせ無駄だとでも言いたいのだろう。
ユダに想いは届かないから諦めろとか、不毛な片思いは滑稽だとか、そんな言葉をまた耳にするのかと思ったら、シヴァの顔は歪んだ。
酒の入った小瓶をテーブルに置いたパンドラの指先が頬に触れ、シヴァは怯えるように一歩後ろに下がる。
パンドラがどこか不機嫌に見えた。けれど、すぐに表情がうさん臭い笑顔に変わっていく。
「そんな顔のまま先生に引き渡したら、私がいじめてしまったみたいではないで
すか…」
「……」
無言の抵抗。
パンドラの指先は彼の苛立ちを伝えるまま、だんまりを決め込んだシヴァの頬を掴んだ。
「可愛い顔が台無しですよ?」
「いっ、いひゃいっ!」
力一杯つねられて、シヴァの目からまた涙が零れる。
上へ下へ横へ。果ては斜めにまで引っ張り、シヴァを痛め付ける。
それが長々と1分も続くものだから、終わった頃にはシヴァの頬に赤い痕がついていた。
「なっ、何するんだよっ!痛いじゃないかァッ!!」
「ほら可愛い」
やっと開放されて、文句を口にするシヴァにこの発言。パンドラの意図が読めない。
このままゼウスに引き渡すつもりだろうに、頬にこんな痕をつけるなんて信じられなかった。
理由を聞かれたところで答えることなんて出来やしないじゃないか。
「そんなにユダ殿に贈り物をしたいのですか?」
「当たり前だろ!?」
必死になっているシヴァを見ておきながら、その発言はないだろう。
シヴァがどれだけユダを慕っているか知っているくせに。
「ねぇ、シヴァ…ひとつ提案があります」
「何だよ…もったいぶらずに早く言えよ!」
苛立ちを隠せず、再び睨み付けてくるシヴァにパンドラはその言葉を口にした。
「私にもチョコをくださいませんか?」
「はぁッ!?」
予想外の言葉に、シヴァは声を荒げた。
ユダへのチョコレートケーキを没収させようとしている張本人が何を言っているのだろう。シヴァがふざくるなと言う前に、パンドラは話の続きを持ち出した。
「ただでいただけるとは思ってませんよ?……学校内への酒の持ち込みと調理室の無断使用、もし私にもいただけるなら、このことは誰にも言いません……如何
ですか?」
「本当!?」
「ただし、手作りチョコ限定ですが…」
「えぇっ!?」
パンドラの言葉に一喜一憂。
チョコレート程度で許して貰えるならと喜んだのも束の間、手作り限定。
自分の手作りチョコレートは全てユダに渡したい。パンドラなんかにあげることは出来ない。
それに新しく作るにしたって、もう材料なんて残っていないし、もう門限間近だ。
「ユダ殿へのチョコレート、没収されても良いのですか?」
「うっ!!」
それだけは絶対に嫌だった。
けれども、材料はどう考えても足りない。
シヴァの背に冷や汗が流れる。
どうにか条件を変えて貰えやしないだろうか。手作りでなければ、帰りがけに急いで買いに行くことも出来なくはない。
そう算段するシヴァに、パンドラは無情にも言い放つ。
「明日までに私に手作りチョコレートを渡していただければ、この件は黙っています。後からバラすなんてことはしません……ですが、もし渡されなかった場合
…わかっていますよね?」
「あっ、パンドラっ、ちょっと待っ…」
「では、私も時間がありませんので…シヴァも早く片付けて、気をつけて寮に戻るのですよ?」
「あぁ〜っ」
呼び止めようとするシヴァを気にも止めず、パンドラは急ぎ足で調理室を後にした。取り付く島もなかった。
あげた声は何とも間抜け。
そんなことよりも重大なのは、どうやって用意するかだ。
頭を抱えて悩み込むシヴァに、パンドラの真意なんて見えやしなかった。
夜が明けて、訪れたのはバレンタインデー当日。
いつもより早くに起きたシヴァは、顔を洗いに行く途中、ガイ達と擦れ違った。
部の朝練に出るガイ達は、今日はいくつチョコレートを貰えるかなど、他愛のない話をしていた。
昨日、人の作っているチョコレートを食べておいて、まだ貰うつもりなのか。
シヴァは苛立ちと半ば八つ当たりの気持ちを込めて、嫌味を吐いてやり例の如く口論を起こした。
たまたま通り掛かったカサンドラの執り成しで、シヴァ達が口論を始めた廊下の前の部屋の住人は睡眠時間を延長出来た。
まだ憤慨しているガイをゴウが引きずっていくのを見送ると、シヴァは自分の部屋へと戻るべく足を進めた。
クスリと人の悪い笑みを浮かべたカサンドラの心の内を言及しないまま。
部屋に戻ったシヴァは、用意していた包みを手に取り鼻息を荒くした。
同室のユダは夜遅くまで険しい顔で机へ向かっていた。どうしたのかと尋ねたら期末テストの範囲を今の内にさらっておきたいと彼は言っていた。邪魔をしたら
悪いと昨晩はシヴァが先に床に就いたが、今朝起きたらユダの方が先に起きていた。――まさかユダが完徹をしていただなんて、シヴァは知るよしもない。
今も机に向かっている。今の内に渡さなければ、渡せない予感がする。だから、今の内に渡して置かなければ。
「ゆっ、ゆ、ユダっ…!」
「……あぁ…どうした?」
(うわぁっ!気怠げな感じも格好良いしセクシーだし、ユダぁ……って違ーうッ!!!!)
ユダに見とれて鼻血を吹いている場合ではない。鼻血を吹いているところなんてユダには見せられないし、早く渡さなければならないと言うのに、これではよくない。
意を決して、出来るだけ可愛らしい仕種でシヴァは手を伸ばした。
「がっ、頑張って作ったんだ!…あの、その…食べて、もらえないかな?」
ちゃんと言えた。ただそれだけだというのに、シヴァは思わず心の中でガッツポーズを決めた。
鼻血を出さなかっただけでも上々だ。きっとユダは受け取ってくれるに違いないと、根拠のない自信まで浮かんでくるが、いつものバターンから鑑みるにユダは適当なことを言って受け取らないのが関の山。
俯き、ドキドキしながらユダの言葉を待っていると、言葉より先に手の平から贈り物が消えるのを感じた。
「ぇ…?」
「ありがとう…シヴァ…」
次に届いたのは優しいユダの声。
おかしい。これは夢ではないのか。もしくはいつもの自分の妄想であるとか、ユダを思うあまりに見た幻覚だとかそんなものでは。
シヴァは昨日パンドラに引っ張られた頬を、自らの手で引っ張る。
痛い。夢じゃない。
「どうした?」
「ぇっ、あっ…何でもないよ!ユダが貰ってくれるなんて、夢みたいで…」
感動で今すぐうち震えたいが、ユダにそんな痴態を見せる訳にもいかず、何とか堪えて笑顔を見せる。
「シンに貰ったチョコを食べた後にじっくりいただくよ」
「あ、うんっ」
シンの方を優先されるのは悔しくて堪らないけれど、シンの次には食べて貰える。今はそれだけで嬉しい。いずれ、シンより先に食べて貰えれば良い。
シヴァは嬉しさのあまり、何もかもポジティブな解釈になっていた。
シンごときが自分のチョコレートケーキの味を越えられるわけがない。そう思っていたというのもあるけれど。――ユダを見つめるあまり、彼の机の上に乗っている、何やらガサガサと動く物体には気付いていなかった。
それがシンからユダへの贈り物だというのに。
「では…まずはシンがくれ…くれた…チョコレート?を…」
「ゆ、ユダ…?」
何で、ユダは震えているのだろう。
(何で…疑問系?)
シンの方を手にしたユダの言葉にシヴァは首を傾げた。
シンから貰ったから嬉しくて震えている訳でもないだろう。
よく見て見ると、ユダの手自体が震えているのではない。――シンから貰ったというチョコレート?が震えていたのだ。
「ユダ?本当にそれ大丈夫なの…?」
「だ、大丈夫…とは失礼なことを、言う…っ」
ユダの言葉を遮るように、彼の手の平に収まった物体はより一層震え出した。それはもう、あからさまに。ユダの顔色も見る見る内に変わっていく。冷や汗も流
して、その姿はあまりにも痛々しい。
シンが愛しくて堪らないユダでも、流石にこれは恐ろしいらしい。――何しろ、このチョコレート?は昨晩からずっと振動していたのだから。
「シン…お前の想いはっ、しかと受け取ったあぁぁぁぁっ!」
「ユダぁぁぁぁっ!?」
ユダの手が、包みを豪快に破った。
ユダの叫び声とともに、シヴァも彼が心配で叫び上がる。
あのチョコレートらしい物体は危険だ。何やら怪獣の頭みたいなものが飛び出ているは、その頭が『キシャーッ』等と鳴き声をあげて蠢いているは、どうみてもチョコレートとしておかしい色をしている。
こんなものを食べたらユダが死んでしまう。
止めようとしたがもうすでに遅く、チョコレートらしい物体から飛び出た双頭の片方を口に含んでいた。
それと同時に、部屋のドアが勢いよく開けられる。ドアを開けたのはルカとレイ。ふたりとも必死の形相だったが、時すでに遅し。
ユダの魂は半分抜け出ていた。
「「間に合わなかった──────ッ!!!」」
ルカとレイの絶叫と、ユダの名を必死に呼ぶシヴァの声が重なり、寮に木霊した。
その後、マヤによって119番通報がなされた。
救急隊員も、原因の食物に顔を青ざめさせていた。これは何かと尋ねられたら、ユダ曰く『チョコレート?』としか言えなかった。
ユダは一命を取り留めたそうだが、原因を作った張本人はユダと顔を合わせるのが恥ずかしくて早々に寮を出て、静かに図書館で本を読んでいた。そこを発見され、教師に呼び出されていた。
しかし、原因を追及されても、シンにとってわざとではなく、無自覚のことだったらしい。――不器用の一言では済まされない。
結局、シヴァのチョコレートケーキはバレンタインデーに食べて貰えることはなく、ユダの机の上で消費期限を向かえることになる。
「はぁっ…結局ユダに食べて貰えなかった…てゆーか、ユダ、本当に大丈夫かな…?」
シヴァは校舎裏の木陰で膝を抱え溜め息を吐いていた。
ユダは受け取ってくれたというのに、食べて貰えないなんてあんまりだ。
これから1週間は集中治療を行うそうだから、その間は寮の部屋ではひとりきり。
ユダには会えない。
ユダについて病院まで行きたかったが、ユダの親友であるルカがついていき、自分はレイに止められ学校に来ている。
心配で授業は上の空だった。お陰でゼウスには雷を落とされ、課題を出された。
どれもこれも、事実シンのせいだ。
腹が立って仕方ないが、今はシンなんかにかまけている暇はない。
本当ならば、パンドラに会わなければならない。
昨日の約束。
手作りチョコレートを渡さなければ、ゼウスに自分が行った悪行を全てバラすと、パンドラそう脅迫めいたことを言った。
何で手作りでなければならないのか、でなければ苦労はしなかった。
寮の中で残ったデコレーション用のホワイトチョコレートを刻んだ。同じくデコレーション用に用意したクッキーを自動販売機で買った牛乳で浸して、溶かした
ホワイトチョコレートと牛乳を混ぜたものを容器で重ねて冷やした。
本当に有り合わせのもの。寮の食堂をホンの少しでも借りられたのは幸運だった。
何とか形には出来たけれど、本当に菓子作りをしたことのない少女が無理をして作ったもののようで、何となくシヴァのプライド的に納得がいかない。
それに、そんな大層なものを作るつもりなど更々にないのだが、こんな簡単なものだからパンドラがガッカリするのを想像したら、胸の辺りがもやもやする。
「何をおひとりで百面相をなさっているのですか?シヴァ殿…」
「うわぁっ…カサンドラ!?」
急に話しかけられ、シヴァの腰が浮く。すぐ隣りにいるカサンドラに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。
綺麗な顔が近い、近過ぎる。
「そっ、そんな近くに寄るな!!」
「何か不都合でも?」
「だからぁっ!!」
常識から見て、この至近距離はあまりにも近過ぎるのではないのか。
鼻先と鼻先がホンの数センチしか離れていない。
「おや…顔が真っ赤ですよ?熱でもあるんですか?」
「ちがっ…」
惑わすようなカサンドラの物言いに、シヴァは翻弄される。
こんなに近付かれても、キラやゴウ相手だったらこんな風にはならない。――何故なら彼らは自分にこんな瞳を向けない。
「まぁ…からかうのはここらへんにしておきましょう…」
「からかうなっ!」
「ところでシヴァ殿…」
「無視するなっ!!」
人の話を聞かない人間の相手をするのは、昨日と今日で2回目だ。
カサンドラはシヴァの隣りに腰を落ち着かせ、意味あり気な視線を向けて来る。
自分の主張を無視するシヴァはカサンドラに憤りを覚えたが、結局彼の言葉に耳を傾けた。どうせ言っても、カサンドラは人の話を聞かないし、何か嫌な予感がした。
「昨日の放課後…寮に帰るまでの間、何をしておいででしたか…?」
「…っ…ぁ」
「答えられないようなことでも?」
―カサンドラは自分が何をしていたのか知っている。
シヴァはそう直感した。嫌な予感はこれだったのだ。
普段だったら、お前には関係ないと一蹴出来る。だが、今は後ろめたい気持ちがある。それが表に出てしまったのだろうか。
動揺を隠せないシヴァの沈黙を、肯定と判断した。
「私の記憶が正しければあなたはHRの後、真っ直ぐ調理室へ向かった……あなたが手に抱えているものを見れば、何をしていたのか簡単に予想が出来る…」
見透かすような瞳が向けられる。
もうユダへの贈り物は彼に渡してしまった。
もう没収されることもないのだが、それでも学園側に知られたらどうなるのだうか。
カサンドラのことだ。悪さをする他の生徒を摘発して、教師からの自分の評価を上げたいのだろう。
自分がしたことは悪いことだが、他人に利用されるのはごめんだ。
「ねぇ…シヴァ殿…どなたにさしあげるつもりだったのですか?」
「…カサ、ンドラ…?」
カサンドラの手の平がシヴァの頬に触れる。離れた筈の顔が再び近付き、吐息が鼻にかかる。
近過ぎて、やっと引いた顔の赤みが戻っていく。
唇が触れてしまいそうなほど近付かれて、逃げたくても逃げられない。
「まさか、ッ…イタッ!!」
「うわぁっ!!」
キスされるのではないかと思うくらい近付いた顔が遠くに離れる。
助かった。本当にキスされたらどうしようと恐怖でドキドキしていたところだった。自分の唇を捧げる相手はユダだけだ。
それはともかく、シヴァはまだ動悸が治まらない胸に手を当て、俯いた顔を上に向けると苦痛に歪んだカサンドラの顔と、見るからに不機嫌なのに笑顔を浮かべたパンドラの姿が見えた。
「パンドラ殿!痛い!痛いです!放してくださいッ!」
「……カサンドラ…何をしているのですか?」
「イタッ!っ、あなたにお話する話ではな…イタタタタッ!!」
「そうですか、話す気はないのですね…なら、私もあなたの話を聞くつもりはありません」
パンドラの手がカサンドラの髪を鷲掴んでいる。無造作に掴まれたそれはあちらこちらの方向から引っ張られ、数本、否、十数本抜けていた。
シヴァの耳にも届くぐらいブチブチと抜けるカサンドラの髪に同情が禁じ得ない。
カサンドラに話させるために、パンドラはわざと力強く髪を引っ張る。カサンドラが涙目になっているのに、パンドラは手を離さない。
正直助かったが、怖い。――しかも、パンドラは顔が笑顔なのにもかかわらず、声が笑っていないため、余計に。
「ほら、早く言わないと…禿頭にはなりたくないでしょう…?」
「わーっ!ちょっとパンドラ!いくらなんでもカサンドラが可哀相だよ!!」
思わずシヴァは制止の声を上げる。
カサンドラの泣きが入った顔なんて、シヴァは今まで見たことがなかった。シヴァがあまりカサンドラと関わらないからためではなく、単純に見たことのある人物の方が少ないからだろう。
「では、あなたに聞きましょう、シヴァ…カサンドラはあなたに何をしていまし
たか?」
「えーっと…」
「シヴァ殿!悩んでないで早ッ、痛ッ!」
「私はシヴァに聞いているんですよ、カサンドラ…」
より一層力を強めるパンドラに、シヴァは顔を青ざめさせた。
「何もなかったから!何もなかったからぁ!!」
「…本当に?」
「本当だってばっ!」
何でそんなに不機嫌なのか、シヴァにはわからなかった。
シヴァの疑問を余所に、パンドラはカサンドラの髪から手を離した。彼の手から、ハラハラと長めの髪が舞い散った。
酷い。
「ひ、酷い目に会いました…っ」
「話はまだ終わっていませんよ?カサンドラ……何をしていたのですか?」
「別に、何も…っ…今、シヴァ殿がそう言っていたではありませんか…!」
まだ涙目になっているカサンドラがいつもの余裕を忘れ、パンドラを睨む。よほど痛かったらしく、後頭部を擦り、眉を寄せていた。
パンドラはそんなことはお構いなしに、カサンドラを見下した。
「私の目にはいわれない理由でシヴァを恐喝しようとしてるように見ました…だからこそ、こうして止めに入ったのですが?」
「いわれない、なんてとんでもない…そのことは事じ」
「ならば、何故その場で指摘しなかったのですか?」
もし、カサンドラの言葉が事実ならその場で指摘するのが適切だろう。
カサンドラの言葉が事実だということは当の本人であるシヴァも内心認めている。
パンドラもそれを知っていて、それを理由にシヴァに交換条件を飲ませていたではないか。
パンドラの真意が見えず、シヴァは目をしばたかせた。
「くっ…」
「何をしようとしていたかは知りませんが…これ以上のことをしようとしたなら、私はそれこそ先生に報告しなければなりませんが…カサンドラ?」
パンドラが現れた時からカサンドラに不利な舞台だった。
カサンドラは悔しそうな顔をしたまま無言で立ち去る。彼の背中を冷たい目で見るパンドラをシヴァは理解出来ず、見つめた。
自分を最初に脅かしたのはパンドラだ。
別に自分の獲物が他人に持って行かれそうになったからといって、彼が助けてくれるとは思えなかった。
所詮、交換条件はシヴァが作ったショボいチョコレートなのだから。
一歩間違えると、昨日の時点で知っていたにもかかわらず学園側に報告しなかった咎を責められるのではないだろうか。
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