小さな気持ち(SBSS:パンドラ×シヴァ)R‐15
2010年6月2日 SS※2010年6月3日に閉鎖されたSNS「天界聖地」にてキリリクとしてアップしたものです
※若干性的な描写がございますので、十五歳未満の方は閲覧をご遠慮ください
―――それはほんの些細なミステイク。
「あの…」
浅い眠りを妨げる幼い声。
『昨夜の行為』の代償としての疲労が身体に溜まり、シヴァはぐっすりと眠っていた。
カーテンから日差しが眩しくなってくる頃、深い眠りから浅い眠りに切り替わり、シヴァはその幼い声に起こされる。
「なん、だよぉ…まだねる…ぅ…」
普段から、成年天使の割に高い声ではあるがここまで高い声ではない『昨夜の行為』の相手に、シヴァは不満げに、寝ぼけた声で返した。
ここまで疲れさせたのは誰だ。
大体、あれは合意の上ではないんだからなと、覚醒しきっていれば口からぽんぽん文句は零れてくるだろうが、生憎まだ覚醒しきっていないシヴァの口からは寝ぼけが前面に出た言葉しか出てこなかった。
「起きてください…」
泣きそうな声がシヴァの耳に届く。
(…ん…?)
何か様子がおかしい。
あの、何気なくセクハラを繰り出してくる――美貌の神官長が泣きそうな声を出すものだろうか。
それに自身の身体を揺さぶる手の平がやけに小さい。
よく、こちらの手を絡めとる彼の手の平は決して大きくはなかったが、ここまで小さくもなかったはずだ。
これが少年天使だったら、これくらいの手の大きさをしていたかもしれないとぼんやり思うが、今は彼も自分も立派な成年天使だ。
不思議に思ったまま、シヴァはむくりと身体を起こした。
眠たい目を擦り、サラサラとした黄緑の髪を瞳に写す。
「あれ…?」
ここまできて、はたと気付く。
いつもだったら早々に神殿へ帰っていく彼が何故、隣にいるのだ。
それに、何故か肩にかけているはずのローブがずり落ち、肘のあたりにたわんでいる。
「あの…」
もう一度、瞳をぱちくりと瞬きさせると、シヴァはやっと覚醒した。
「…え……?」
シヴァは自身の目を疑い、もう完全に目が覚めたというのにまた瞬きした。
「あの……ここはどこでしょう?」
そう呟く彼の姿は幼かった。
いつもだったら猫を被っているのが丸見えな笑顔の仮面を被っている表情は泣きそうな子どもそのもので、少年天使ほどの姿をしていた。
元から華奢で、細かったか身体は更に小さくなり、だからこそ纏っているはずのローブは完全にずり落ちる寸前のところまで下がっていた。
袖も長く、ぶかぶかした服が何とも幼い姿を強調する。
「………パ…ンドラ?」
「はい…」
どう見てもパンドラにしか見えないが、どう見ても青年天使に見えない彼は、信じられないような目で自分を見るシヴァの視線にぷるぷると震えた。
その姿は子どもを通り越して、小動物のように見え、罪悪感を覚えそうなものだが、パニックを起こしているシヴァには罪悪感なんて芽生えようがなかった。
(な、何で小さくなってるのさ…!元からパンドラは小さいけどここまで小さくないし!!夢!?これは僕の夢!?夢ならユダの夢を見たいよ!!)
大概失礼なことを言っているが、事実でもある。
パンドラの体つきは華奢で、シヴァよりも細く、身長もシヴァよりも小さい。
それなのに、何度もそういう『行為』を強いられている現実からも、今目の前にある現実からも目を背けたかった。
現実とこの現状からの波状攻撃に、シヴァの表情はコロコロ変わる。
思わずパンドラから目を逸らし、考え込みながらあれやこれやと考えていたシヴァに彼は話し掛けた。
「あの…何で、わたしは裸のあなたと一緒に寝ていたんでしょう…?」
「…っ…!?」
その言葉に、シヴァはやっと目の前にいる彼の現状よりも、ある意味自分の現状の方が悲惨だということに気がついた。
起き上がった際に掛布はずり落ち、上半身は丸見えだ。
その上半身には所々に鬱血が残され、布の隙間から見える下半身も何も纏ってはいない。
辛うじて引っかかっている程度の掛布の下は、決して子ども相手に見せてはいけないものだ。
内股にはいまだ情事の痕が残り、上半身より鬱血の数が多い。
まさか見られてはいないかと、小さなパンドラに目をやったが、答えは明白だった。
顔を真っ赤にしてぷるぷると震えているパンドラの姿に、シヴァは顔を青ざめる。
声にならない叫びを上げ、シヴァは急いで身体を隠した。
(どうなってるんだああああ!?)
シヴァの悲痛な心の叫びは、決して神に伝わることはなかった。
他人に決して見られてはいけないものを見られ、しばし愕然としていたシヴァであったが、一時間もすれば何とか持ち直すことができた。
全身を敷布で隠し、事情を聞きたそうにしている小さなパンドラを無視して水浴び場へと足を運んだ。
誰かに見られてもマズイが、体内に放たれたものが溢れ出てしまっているこの状態ではろくに移動もままならない。
自身が目を覚ましてからぐっすり眠っていたシヴァを必死になって起こし、更には一時間も待っていたパンドラをこの上まだ待たすという非道な行為を行うことになるが、モトはと言えば彼が嫌がるシヴァに無理強いをしたのが悪いのだ。
いつも、することだけしておいて自分はさっさと神殿に帰っていくパンドラの手を借りたことはほんの数回しかなく、こういった処理も慣れたものだった。
「あ…っ」
慣れてしまった自分に落ち込むと同時に、ある事実に思い至る。
普段、パンドラがとっとと帰るのは、彼が侍っている大神に、シヴァにした行為がバレることを恐れてのことだろう。
だが、昨晩、パンドラは神殿に戻っていない。
大神から最も寵愛されている神官長だ。大神と神官との間で夜毎、何が行われているかを知らないわけではない。
もし、大神がパンドラを探したら、神殿にいないことなんてすぐわかるだろう。
パンドラがしばしば、シヴァに何かとちょっかいをかけに来るなんて、神殿でも知られたことだろう。
パンドラがシヴァに何をしているかを知らなくても、いらない疑惑がかけられ、もしも粛清の対象となれば―――。
慌てて身体から水気を拭き取り、急いで用意した服を身に纏った。
誰かに―――ユダに助けてもらわなければ、きっと。
「うわああああっ!!」
「なっ、何ですか?いきなり…うわっ」
「いますぐユダに助けてもらうからな!」
「ええ!?」
いきなり叫びながら飛び込んできたシヴァに、小さなパンドラは肩を上下させて驚く。
いつまでも帰ってこないシヴァがどこへ行ったか確かめるために窓の外を覗こうとしていたらしく、小さな手の平が窓のふちを掴んでいた。
その手を乱暴に引っ手繰り、抱き上げる。弾みで、辛うじて引っかかっていたローブは完全に床に落ち、歩くたびにぱかぱか音を立てていた靴は転がった。
ただでさえも軽かった身体は縮んでから更に軽くなり、シヴァでも簡単に抱き上げられる。
まるで、答えは聞いていないとでも言いたそうな態度のシヴァは、状況を掴めていないパンドラをユダのもとへと連れていった。
ユダならきっと何とかしてくれる―――そう、信じて。
「やはり…パンドラもか…」
「え?それ、どういうこと!?ユダ!!」
このままではゼウスに粛清されてしまうとユダに泣きついたシヴァに、彼は肩を落とした。
いつも凛とした表情は消え、額からは冷や汗が流れていた。眉は歪められ、端正な顔には翳りが見える。
思いもよらないユダの姿に、シヴァは思わず詰め寄る。
シヴァがユダを責めているように見えるのか、彼を庇うようにルカが二人の間に割って入った。
「ゼウスが馬鹿をやらかしたらしい」
自分を庇ってくれるルカに申し訳ないためか、それとも、ことの次第があまりにも馬鹿らしくて呆れたのか、ユダは声のトーンを落とし、そう言った。
ゼウスのことをこうも明け透けに口にできるのは展開広しと言えども、ユダくらいなものだろう。
実際、実情を知ったものはみな、そう思ったが口には出せずにいた。
ただでさえも、いつパニックが起こってもおかしくないこの状況下で、ヘタにゼウスの逆鱗に触れ、とばっちりを受けたら堪ったものではない。――それが例え、百パーセントゼウスに非があろうとも、天使たちは受け入れるほかない。
それだけの状況であるにも関わらず、何もわかっていないシヴァにユダの背後に控えていたシンたちは深く溜息を吐いた。
―――何でシヴァとパンドラが朝まで一緒にいたんだ?
何か企んで、シヴァを利用しようとしているなら、まだわかる。
それ以外の理由を一瞬思い浮かべて、四聖獣は首を横に振る。
いや、まさか、そんな―――。
ユダやシン、ルカやレイじゃあるまいし。
「馬鹿って…一体何があったの?ユダ!」
何か深い意味がありそうなユダの声音に、シヴァはまたズズイと一歩踏み出した。
今にもルカを跳ね除けてでも彼に近づこうとするシヴァに、ユダは何も言いたくなさそうに、その事実を口にした。
知らないなら、真実を伝えなければならない。
「ゼウスの些細な戯れが誤作動を起こし、神官たちがみな、少年天使にまで縮んでしまったんだ」
「…………へ?」
ユダがオブラートに包み、些細な戯れと言ってはいるがその実際はそういうプレイ。
日ごろのユダへのセクハラから鑑みるに、そちらの気は無いと思っていたが、何を思ったのかそういうプレイに走ろうとしたらしい。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、それ以上深いところまでは口にすることはできなかった。
ユダは何となく察して欲しいと思っていたのだが、シヴァには少々伝わりきらなかったようで、きょとんとした表情を見せていた。
同様に、シヴァの後ろに隠れている小さくなってしまったパンドラも理解できなかったらしく、首を傾げていた。
「それ以上追求してくれるな」
「わかったよ!ユダ!」
もう一度噛み砕いた意味で説明して欲しいと言いかけたシヴァにユダは先手を打つ。
ユダにそういわれては、シヴァが引き下がらないはずはない。
シヴァは飼主のいいつけを聞いたばかりの子犬のように、大人しくなった。
彼はそれで済むが、シヴァの服の裾を掴んでユダたちの様子を伺っていたパンドラにはそうはいかないだろう。
シヴァは気にしはしないが、やや睨みをきかせていたルカを下がらせ、ユダは自分から彼の元へ歩み寄る。
シヴァが見たら鼻血を吹かれかねない笑顔を浮かべ、パンドラを気遣い、優しい声で話し掛けた。
「急に小さくなって困惑していると思うが、心配ない…ゼウスも一人ずつ元に戻していっているからお前もすぐに元に戻れるだろう」
だから心配するなと、ユダの穏やかな声がパンドラの耳に届く。
少し、頬を染め、彼の名を呟くパンドラをシヴァは見逃さなかった。
少々ムッとするシヴァに気付きもしないで、ユダは更に穏やかな声でパンドラに話し掛ける。
「しばらく、神殿は混乱しているだろう…だから、今日のところはシヴァに世話になるといい」
「え…」
さり気なく面倒ごとをシヴァに押し付けようとするユダの言葉に、パンドラは目を丸くする。
一歩下がったところで様子を伺っていたガイたちは無難な選択だなと、ユダに同意するように頷いた。
ユダのすぐ側にいたルカは、シヴァになんて任せて大丈夫なのかと言いたげな瞳を彼に向けていたが、ゼウスですら切って捨てる六聖獣の長は気にもしなかった。
面倒ごとを押し付けられそうになっている肝心のシヴァは、ユダが微笑みながら願えば簡単に転がるだろう。
身体だけでなく、心まで幼くなったパンドラは、彼らの関係性が掴めず、ただ困惑の表情を見せた。
「パンドラのことを頼めるか?」
そう優しくユダが微笑めば、シヴァの心は簡単に動く。
あまりに単純で露骨な態度を見せるシヴァに、パンドラは少々物言いたげな顔を見せる。
「よろしく頼む、シヴァ」
「うん!わかったよ、ユダ!」
神殿内部がああなってしまった以上、天界全体も一時的に混乱するだろう。
混乱を避けるために、六聖獣は朝から奔走していた。
あれほどの混乱を何も知らずにいたのだから、少しくらい面倒ごとを押し付けても良いだろうと思ったのか、ユダはパンドラをシヴァに任せた。
愛しいユダに頼まれ、シヴァは嬉々としながら自身の服の裾を掴んでいたパンドラの手を解き、その細腕で抱き上げる。
そのまま、いそいそとパンドラを自宅へと連れ帰った。
パンドラをここに連れてきた時には、あんなにあからさまに嫌そうな顔をしていたシヴァの表情が明るくなる。この調子ならゼウスにバレることはないだろうと踏んだのか、あの時の青ざめた顔は赤みがかっていた。
――ちくんっ。
針で軽く刺されたようなわずかな胸の痛みに、顔をしかめた。
「えっと…」
「ほら、早く服脱げよ」
目の前を立ち上る白い湯気と、シヴァの言葉にパンドラは戸惑う。
足元に置かれた樽に並々と入った湯は程よい熱さだった。
早く服を脱ぐように促すということは、湯浴みをしろということなのだろうか。
そろそろと背後のシヴァを見上げると、その通りだったらしく、彼の手がパンドラの肩にかかる。
「服も靴もブカブカで、素足で立たせたりしただろう?このまま、中に入ったらうちが汚れるから」
だから、綺麗にするのだと、シヴァの指先が襟元を摘む。
パンドラの意思を無視して脱がそうとするシヴァの行動に、彼の肩は上下に揺れた。
「自分で脱ぎますから、大丈夫です!」
このまま脱がされたら羞恥に顔から火が吹き出そうだ。
それに、そのまま身体まで洗われたらと思うと身体の奥がゾワゾワした。
恥ずかしいとか、情けないとかそんな気持ちでいっぱいになる。
シヴァの背後に回り、彼の背中をぐいぐいと押して、こちらに背を向けさせた。
シヴァも、ひとりでできるならそうさせた方が楽だと納得したらしく、濡れた身体を布と、自身の服をつめて小さなパンドラでも着られるようにした自身の服を置いて、屋内へと入っていった。
ぱたりと閉められたドアの音に、パンドラはほっとする。
他人に素肌を見られるのは、なんとなく嫌だった。誰だってそうだろう。
親しい間柄ならともかく、パンドラにとってシヴァは今日はじめて出会った人物だった。
けれど、実際はそうではないらしい。
彼らの言い分では、自分は本来成年天使であり、彼らと知り合いであるらしい。
自分は大神に仕える神官という立場にあり、神官たちは皆、自分と同じく少年天使まで縮んでしまったという。
事情がいまだに飲み込めていない。
誰と、どういう関係であったのかも、自分がどういう立場であるのかもわからないでいた。
ただ不安で、怖い。
特に、何で、朝起きたときに裸のシヴァの隣で寝ていたのか、理由を考えることがなんとなく、怖かった。
気づいてしまったら、いけない気がしてならないのだ。
パンドラは小さな自身の肩を抱え、湯に足を一歩入れる。丁度いい温度に冷えた身体が温められ、ほっと息を吐いた。
腰を下ろし、肩まで浸かるように膝を抱えると、湯が呼気で泡立ち、ぷくぷくと音を立てる。
なんだかそれが楽しくて、パンドラは夢中になる。
泡が弾けるたびに、いい香りがパンドラの鼻をつき、首を傾げる。ほんの数滴、香料を込められたオイルでも入れたのだろうか。
あの尊大な態度をとる彼が、そんな気遣いを。
少し、彼と繋がらない気がして、パンドラは眉をひそめた。
そういえば、彼はパンドラの手足が外気にさらされ冷えてしまったと気づいてから、顔をしかめていた。
用意してくれた服も、パンドラの服を弄るのではなく、彼の服を詰めてパンドラでも着られるようにしてくれていた。靴だって、足が小さくても大きくても履けるものを用意してくれた。
もしかしたら彼はその態度に似合わず、優しいのではと思い、パンドラは怖がってしまった自分を反省した。
自分のことを嫌いだったら、きっとこんなに優しくはしてくれない。
そう思えば、何も怖くはなかった。先ほどまで、心の奥をざわざわと騒がせていた不安も立ち消える。
そう信じていた。
「あの…あ、いいにおい」
湯船から上がって、パンドラが恐る恐る彼の家のドアを開けると、食事のいいにおいが鼻をくすぐり、思わずそう呟いた。
ぺたぺたと足音をたて、歩みを進めると、調理をしているシヴァが振り返る。キリン柄のエプロンを翻し、さじを持ったままパンドラのもとへ歩み寄った。
「よく洗ったか…んん?」
少し、笑ったかと思ったらすぐに眉を寄せられ、パンドラの肩が小さく震える。
何か悪いことをしてしまったのかとおどおどするパンドラの手をシヴァはぐいと掴み、良いにおいがする方向から遠ざかっていく。
「あ、あの」
「何でちゃんと髪拭かないんだよ!」
そう言って、どこからともなく出された布で、髪をガシガシと拭かれる。
少し乱暴だと感じるくらいに強く、けれど髪の毛が抜けるほど強いわけではない。
これではまるで幼児だ。自分では少年天使であると認識しているし、もとの自分は成年天使だというのにこの扱い。何だか、心の中で引っかかる。
髪の毛を拭われた揚句、髪を梳かれたパンドラはシヴァに手を取られるまま、椅子に腰かける。
テーブルに出された食事からはやはり鼻をくすぐる良いにおいがして、パンドラの腹からがくうくうと鳴る。
パンドラは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にするが、シヴァはたいして気にした様子もなくシチューを皿に注ぐ。差し出された皿を受け取ると、温かい湯気が頬に触れた。
お腹がすいた子どもに、このおいしそうなにおいは狂気に等しい。頑張って体裁を取り繕おうとするが、腹の音が再び鳴り出す。
「いいよ、先に食べて」
「でも…」
「僕もすぐ食べるから」
シヴァが自分の分を注ぐまで待つつもりだったが、彼はパンドラに先に食べるように促す。お腹がすかせた子どもを待たすほど、シヴァも非道ではない。
いくらパンドラが頑張ろうと思っても身体は正直に動き出す。
パンドラはごめんなさいと頭を下げて、スプーンを手にした。いいにおいがする目の前の食事を、パンドラは頬張る。
少々味が濃いが味はおいしい。おいしいと口にしたかったが、言葉より手が先に出る。
もう一口、もう一口と食べていたら止まらなくなってしまった。空腹ゆえに余計に手は止まらない。
「あ…ごめんなさい」
ムスッとした顔をしているシヴァに、きっと何も言わないで食べ続けているから不機嫌なのだと勘違いしたパンドラは、皿も空になりそうなころ、やっと口を開いた。
すると、向かいに座っていたシヴァが立ち上がり、彼の顔がパンドラの顔に近寄ってくる。
パンドラの心臓がドキリと跳ねた。
「何で謝るんだよ…ああ、もうっ。口のまわり汚れてる」
パンドラの心臓がどきどきと刻まれているとは知らずに、シヴァは彼の口のまわりを布で拭う。
「急いで食べなくても、誰もとったりしないから」
「………」
「何だよ?」
拭いてやっただけだというのにムッとして黙り出すパンドラに、シヴァは彼の真似をするようにムッとする。
「ごめんなさい…」
「だから、何で謝るんだよ」
パンドラは理由を言わないまま、食事を終えた。
シヴァは釈然としないまま食器を片づけ、パンドラを寝室に案内した。自分は用があるから先に寝ろと言って、奥の部屋へと入っていった。
ずきんずきんと胸が痛んだ。
「はあ…」
今朝、はじめて目にした寝台に埋まりながら、パンドラはため息を吐いた。
シヴァのあんな姿を見たこの場所で、どうやって寝ろというのだろう。
あられもない姿を見られたことを忘れているのだろうか―――それとも、どうせ子どもだからわからないとでも思われているのだろうか。
そう思ったら、また、胸が痛んだ。
子ども扱いをされるたびに胸が痛むのだ。自覚はないが、自分は成年天使だったのではないのか。それなのに、子ども扱いをされると、何故か胸がずきずきと痛む。
ちゃんと相手をしてくれて、こんなに世話まで焼いてくれた。きっと、嫌われてはいないだろうなと思う。
失礼な話だが、シヴァは嫌っている相手に優しくできるようなタイプには見えなかった。
だから、きっと嫌われてはいないのだろうとパンドラは勝手に推測している。それも、確認しなければ、事実とは違う可能性だってある。
事実とは違っていたら、自分はどう思うのだろうか。きっと、胸が苦しくて、どうしようもないのだろうと理由もなく思う。
思考がぐるぐるとループし始めたころ、窓から差し込む月の光に照らされる。先ほどとは傾きが違う。どれくらい時間が経ったのか、パンドラは今やっと気がついた。
「あ…」
自分は眠りにつくことができずこうしてしているが、シヴァはいつになったら寝るのだろう。
パンドラがシヴァに眠れと促されてから、大きく月は傾いて、後数刻で太陽が昇るだろう。もう深い時間だというのに、シヴァは帰ってくる気配もない。
パンドラは心配になって起き上がる。もし、用事の最中に寝てしまっているのなら、何か掛けずに寝てしまっているのなら、きっと風邪をひいてしまう。
パンドラに風邪をひくだろうと、乱暴に髪を拭いたシヴァが風邪をひいたら笑えないし、心配だ。
もし、まだ用事が終わっていないなら、世話をしてくれたお礼に手伝おうと、もう月が傾き、朝が足音をたて始めたころ、何をしているのかは知らないが早く寝た方がいいと言うために、パンドラは寝台から降りた。
少し肌寒いから掛け布を纏い、パンドラは足を進める。ズルズルと引きずってしまい、自分が本当に小さいのだと自覚する―――シヴァを見上げなければ、目を合わすことはできない。
もとの自分は一体どんな人物だったのだろう。せめてシヴァと目を合わせることができるくらいには身長があってほしいと思う。そうならば、きっと子ども扱いはされないだろう。
そんな、この現状に比べたら些細なことを考えながら、ぺたぺたと音をたてて、パンドラは月明かりに影が伸びる廊下を行く。
そうやって、一歩ずつ彼に近づいていくと思うと心臓がドキドキと高鳴ってくる。現金なものだ。もし、何か手伝うことができたら、少し話ができないだろうか。もし、一緒に寝ることができたらと思うと、顔が少し熱くなる。
どうして、近づけることが嬉しいと感じるのかわからなかったが、自然と歩く速度は早まっていく。子ども扱いが嫌だと思っていながら、これではまるで子どもでしかない。
それを自覚しながら、パンドラはシヴァが用があるからと閉じた扉に手をかけた。
「シヴァ…、っ」
わくわくとした声音を隠しきれないまま口にした名前は、すぐさま戸惑いに代わる。
目の前に広がる紅がパンドラを襲う。大きなキャンバスいっぱいに描かれている人物の、色を塗られる前の瞳がパンドラを串刺しにした。
「…………これは…、ぁっ…」
視線を奪われたまま一歩進むと、素足で何かを踏みつけた。縛りつけられたように動かせなかった視線は、その時になってやっと動かすことができた。
足元に目をやると、青い絵の具のチューブがパンドラの足に踏みつけられ床を汚していた。―――きっと、瞳の色を塗ろうとしたのだろう。
青い絵の具が落ちていた場所からほんの少し離れた場所に、月明かりに照らされた闇色の髪が床に広がっているのが見えた。
すぐそばには紅の絵の具がついたままの筆が落ちており、シヴァが眠りに落ちる前、何をしていたのかを察する。
―――絵を描いていたのだ。彼の。
パンドラを世話するよりもよっぽど大切なのだろう。見るだけでわかるくらい、シヴァの気持ちがこの絵には描きだされていた。心の奥が急に冷えて行くのを感じる。そうして、冷たさから痛みに代わりずきずきと小刻みに苦しさを訴える。
「……ユ…ダ」
眠りに落ちても、彼の心はすべて、あの紅に奪われているのだ。聞いているだけで切なくなる声で呼び、そばにいるだけで嬉しそうに目を細め、頬を染める。
シヴァにとって、そんな姿を見せる相手は―――ユダだけなのだ。
世話を焼いてくれたのは、彼に言われたからだと今やっと気がついた。自分に対する好意なんて全く関係ないところで、彼は動いていた。
たったそれだけの、わかりきっていた事実にひどく傷ついている自分がいることに、パンドラは気づきたくもないのに気がついてしまった。
優しくしてくれたことも、髪を拭いてくれたことも、食事をする自分を見守ってくれたのも、全て。
そうして、世話を焼くだけ焼いて、逃げるように姿を消した。彼の前では何もかも無意味で、自分は本当にちっぽけな存在でしかなかったのだ。
「……どうしたら、好きになってもらえますか?」
相手には伝わらないと知りながら、思わず口から思いが飛び出た。
自分がもし、成年天使だったとしても、シヴァの気持ちはきっと変わらない。変わらないならせめて、変わってくれるよう努力くらいはしたい。
きっと、自分は数日後には元に戻る。元は成年天使なのだ。元の自分とシヴァは何かしらの関係がある。だから、きっと、今よりは何かができるはずだと―――信じたかった。
「…ぅっ…」
涙がぽろぽろとこぼれて、止まらない。嬉しいと思っていたのは自分一人で、相手には何一つとして伝わってはいなかった。ただ、それだけなのに、どうしようもなく胸が痛かった。子ども扱いされても嬉しかった昼間の出来事が現実ではなかった気がして、どうしようもなかった。
苦しくて苦しくてたまらないのに、全ての原因であるシヴァの手を取り、隣に寄り添った。
ほんの少しでも、心が近付けたら良かった――――。
シヴァは安らかな眠りの中にいた。硬い床に背を預けていたが、窓から差し込む日光が程良くぬくみを与え、寝坊を促していた。
そんなシヴァの眠りを妨げる声が、彼の耳に届く。
「シヴァ!」
パンドラがシヴァの肩を揺さぶる。その身に纏っているのは、神官のそれとは違う白い弛んだ衣服。パンドラには現在の状況がわからないまま―――昨夜の切なさをすべて忘れて、ただただシヴァにこの状況を問いただそうとしている。
何故、自分が神殿に帰っていないのか、どうして床の上で寝ているのか。
パンドラには理解できなかった。
―――小さすぎる気持ちは、ほんの些細な間違いのために簡単に消えてしまった。
痛みすら残さず。
END
※若干性的な描写がございますので、十五歳未満の方は閲覧をご遠慮ください
―――それはほんの些細なミステイク。
「あの…」
浅い眠りを妨げる幼い声。
『昨夜の行為』の代償としての疲労が身体に溜まり、シヴァはぐっすりと眠っていた。
カーテンから日差しが眩しくなってくる頃、深い眠りから浅い眠りに切り替わり、シヴァはその幼い声に起こされる。
「なん、だよぉ…まだねる…ぅ…」
普段から、成年天使の割に高い声ではあるがここまで高い声ではない『昨夜の行為』の相手に、シヴァは不満げに、寝ぼけた声で返した。
ここまで疲れさせたのは誰だ。
大体、あれは合意の上ではないんだからなと、覚醒しきっていれば口からぽんぽん文句は零れてくるだろうが、生憎まだ覚醒しきっていないシヴァの口からは寝ぼけが前面に出た言葉しか出てこなかった。
「起きてください…」
泣きそうな声がシヴァの耳に届く。
(…ん…?)
何か様子がおかしい。
あの、何気なくセクハラを繰り出してくる――美貌の神官長が泣きそうな声を出すものだろうか。
それに自身の身体を揺さぶる手の平がやけに小さい。
よく、こちらの手を絡めとる彼の手の平は決して大きくはなかったが、ここまで小さくもなかったはずだ。
これが少年天使だったら、これくらいの手の大きさをしていたかもしれないとぼんやり思うが、今は彼も自分も立派な成年天使だ。
不思議に思ったまま、シヴァはむくりと身体を起こした。
眠たい目を擦り、サラサラとした黄緑の髪を瞳に写す。
「あれ…?」
ここまできて、はたと気付く。
いつもだったら早々に神殿へ帰っていく彼が何故、隣にいるのだ。
それに、何故か肩にかけているはずのローブがずり落ち、肘のあたりにたわんでいる。
「あの…」
もう一度、瞳をぱちくりと瞬きさせると、シヴァはやっと覚醒した。
「…え……?」
シヴァは自身の目を疑い、もう完全に目が覚めたというのにまた瞬きした。
「あの……ここはどこでしょう?」
そう呟く彼の姿は幼かった。
いつもだったら猫を被っているのが丸見えな笑顔の仮面を被っている表情は泣きそうな子どもそのもので、少年天使ほどの姿をしていた。
元から華奢で、細かったか身体は更に小さくなり、だからこそ纏っているはずのローブは完全にずり落ちる寸前のところまで下がっていた。
袖も長く、ぶかぶかした服が何とも幼い姿を強調する。
「………パ…ンドラ?」
「はい…」
どう見てもパンドラにしか見えないが、どう見ても青年天使に見えない彼は、信じられないような目で自分を見るシヴァの視線にぷるぷると震えた。
その姿は子どもを通り越して、小動物のように見え、罪悪感を覚えそうなものだが、パニックを起こしているシヴァには罪悪感なんて芽生えようがなかった。
(な、何で小さくなってるのさ…!元からパンドラは小さいけどここまで小さくないし!!夢!?これは僕の夢!?夢ならユダの夢を見たいよ!!)
大概失礼なことを言っているが、事実でもある。
パンドラの体つきは華奢で、シヴァよりも細く、身長もシヴァよりも小さい。
それなのに、何度もそういう『行為』を強いられている現実からも、今目の前にある現実からも目を背けたかった。
現実とこの現状からの波状攻撃に、シヴァの表情はコロコロ変わる。
思わずパンドラから目を逸らし、考え込みながらあれやこれやと考えていたシヴァに彼は話し掛けた。
「あの…何で、わたしは裸のあなたと一緒に寝ていたんでしょう…?」
「…っ…!?」
その言葉に、シヴァはやっと目の前にいる彼の現状よりも、ある意味自分の現状の方が悲惨だということに気がついた。
起き上がった際に掛布はずり落ち、上半身は丸見えだ。
その上半身には所々に鬱血が残され、布の隙間から見える下半身も何も纏ってはいない。
辛うじて引っかかっている程度の掛布の下は、決して子ども相手に見せてはいけないものだ。
内股にはいまだ情事の痕が残り、上半身より鬱血の数が多い。
まさか見られてはいないかと、小さなパンドラに目をやったが、答えは明白だった。
顔を真っ赤にしてぷるぷると震えているパンドラの姿に、シヴァは顔を青ざめる。
声にならない叫びを上げ、シヴァは急いで身体を隠した。
(どうなってるんだああああ!?)
シヴァの悲痛な心の叫びは、決して神に伝わることはなかった。
他人に決して見られてはいけないものを見られ、しばし愕然としていたシヴァであったが、一時間もすれば何とか持ち直すことができた。
全身を敷布で隠し、事情を聞きたそうにしている小さなパンドラを無視して水浴び場へと足を運んだ。
誰かに見られてもマズイが、体内に放たれたものが溢れ出てしまっているこの状態ではろくに移動もままならない。
自身が目を覚ましてからぐっすり眠っていたシヴァを必死になって起こし、更には一時間も待っていたパンドラをこの上まだ待たすという非道な行為を行うことになるが、モトはと言えば彼が嫌がるシヴァに無理強いをしたのが悪いのだ。
いつも、することだけしておいて自分はさっさと神殿に帰っていくパンドラの手を借りたことはほんの数回しかなく、こういった処理も慣れたものだった。
「あ…っ」
慣れてしまった自分に落ち込むと同時に、ある事実に思い至る。
普段、パンドラがとっとと帰るのは、彼が侍っている大神に、シヴァにした行為がバレることを恐れてのことだろう。
だが、昨晩、パンドラは神殿に戻っていない。
大神から最も寵愛されている神官長だ。大神と神官との間で夜毎、何が行われているかを知らないわけではない。
もし、大神がパンドラを探したら、神殿にいないことなんてすぐわかるだろう。
パンドラがしばしば、シヴァに何かとちょっかいをかけに来るなんて、神殿でも知られたことだろう。
パンドラがシヴァに何をしているかを知らなくても、いらない疑惑がかけられ、もしも粛清の対象となれば―――。
慌てて身体から水気を拭き取り、急いで用意した服を身に纏った。
誰かに―――ユダに助けてもらわなければ、きっと。
「うわああああっ!!」
「なっ、何ですか?いきなり…うわっ」
「いますぐユダに助けてもらうからな!」
「ええ!?」
いきなり叫びながら飛び込んできたシヴァに、小さなパンドラは肩を上下させて驚く。
いつまでも帰ってこないシヴァがどこへ行ったか確かめるために窓の外を覗こうとしていたらしく、小さな手の平が窓のふちを掴んでいた。
その手を乱暴に引っ手繰り、抱き上げる。弾みで、辛うじて引っかかっていたローブは完全に床に落ち、歩くたびにぱかぱか音を立てていた靴は転がった。
ただでさえも軽かった身体は縮んでから更に軽くなり、シヴァでも簡単に抱き上げられる。
まるで、答えは聞いていないとでも言いたそうな態度のシヴァは、状況を掴めていないパンドラをユダのもとへと連れていった。
ユダならきっと何とかしてくれる―――そう、信じて。
「やはり…パンドラもか…」
「え?それ、どういうこと!?ユダ!!」
このままではゼウスに粛清されてしまうとユダに泣きついたシヴァに、彼は肩を落とした。
いつも凛とした表情は消え、額からは冷や汗が流れていた。眉は歪められ、端正な顔には翳りが見える。
思いもよらないユダの姿に、シヴァは思わず詰め寄る。
シヴァがユダを責めているように見えるのか、彼を庇うようにルカが二人の間に割って入った。
「ゼウスが馬鹿をやらかしたらしい」
自分を庇ってくれるルカに申し訳ないためか、それとも、ことの次第があまりにも馬鹿らしくて呆れたのか、ユダは声のトーンを落とし、そう言った。
ゼウスのことをこうも明け透けに口にできるのは展開広しと言えども、ユダくらいなものだろう。
実際、実情を知ったものはみな、そう思ったが口には出せずにいた。
ただでさえも、いつパニックが起こってもおかしくないこの状況下で、ヘタにゼウスの逆鱗に触れ、とばっちりを受けたら堪ったものではない。――それが例え、百パーセントゼウスに非があろうとも、天使たちは受け入れるほかない。
それだけの状況であるにも関わらず、何もわかっていないシヴァにユダの背後に控えていたシンたちは深く溜息を吐いた。
―――何でシヴァとパンドラが朝まで一緒にいたんだ?
何か企んで、シヴァを利用しようとしているなら、まだわかる。
それ以外の理由を一瞬思い浮かべて、四聖獣は首を横に振る。
いや、まさか、そんな―――。
ユダやシン、ルカやレイじゃあるまいし。
「馬鹿って…一体何があったの?ユダ!」
何か深い意味がありそうなユダの声音に、シヴァはまたズズイと一歩踏み出した。
今にもルカを跳ね除けてでも彼に近づこうとするシヴァに、ユダは何も言いたくなさそうに、その事実を口にした。
知らないなら、真実を伝えなければならない。
「ゼウスの些細な戯れが誤作動を起こし、神官たちがみな、少年天使にまで縮んでしまったんだ」
「…………へ?」
ユダがオブラートに包み、些細な戯れと言ってはいるがその実際はそういうプレイ。
日ごろのユダへのセクハラから鑑みるに、そちらの気は無いと思っていたが、何を思ったのかそういうプレイに走ろうとしたらしい。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、それ以上深いところまでは口にすることはできなかった。
ユダは何となく察して欲しいと思っていたのだが、シヴァには少々伝わりきらなかったようで、きょとんとした表情を見せていた。
同様に、シヴァの後ろに隠れている小さくなってしまったパンドラも理解できなかったらしく、首を傾げていた。
「それ以上追求してくれるな」
「わかったよ!ユダ!」
もう一度噛み砕いた意味で説明して欲しいと言いかけたシヴァにユダは先手を打つ。
ユダにそういわれては、シヴァが引き下がらないはずはない。
シヴァは飼主のいいつけを聞いたばかりの子犬のように、大人しくなった。
彼はそれで済むが、シヴァの服の裾を掴んでユダたちの様子を伺っていたパンドラにはそうはいかないだろう。
シヴァは気にしはしないが、やや睨みをきかせていたルカを下がらせ、ユダは自分から彼の元へ歩み寄る。
シヴァが見たら鼻血を吹かれかねない笑顔を浮かべ、パンドラを気遣い、優しい声で話し掛けた。
「急に小さくなって困惑していると思うが、心配ない…ゼウスも一人ずつ元に戻していっているからお前もすぐに元に戻れるだろう」
だから心配するなと、ユダの穏やかな声がパンドラの耳に届く。
少し、頬を染め、彼の名を呟くパンドラをシヴァは見逃さなかった。
少々ムッとするシヴァに気付きもしないで、ユダは更に穏やかな声でパンドラに話し掛ける。
「しばらく、神殿は混乱しているだろう…だから、今日のところはシヴァに世話になるといい」
「え…」
さり気なく面倒ごとをシヴァに押し付けようとするユダの言葉に、パンドラは目を丸くする。
一歩下がったところで様子を伺っていたガイたちは無難な選択だなと、ユダに同意するように頷いた。
ユダのすぐ側にいたルカは、シヴァになんて任せて大丈夫なのかと言いたげな瞳を彼に向けていたが、ゼウスですら切って捨てる六聖獣の長は気にもしなかった。
面倒ごとを押し付けられそうになっている肝心のシヴァは、ユダが微笑みながら願えば簡単に転がるだろう。
身体だけでなく、心まで幼くなったパンドラは、彼らの関係性が掴めず、ただ困惑の表情を見せた。
「パンドラのことを頼めるか?」
そう優しくユダが微笑めば、シヴァの心は簡単に動く。
あまりに単純で露骨な態度を見せるシヴァに、パンドラは少々物言いたげな顔を見せる。
「よろしく頼む、シヴァ」
「うん!わかったよ、ユダ!」
神殿内部がああなってしまった以上、天界全体も一時的に混乱するだろう。
混乱を避けるために、六聖獣は朝から奔走していた。
あれほどの混乱を何も知らずにいたのだから、少しくらい面倒ごとを押し付けても良いだろうと思ったのか、ユダはパンドラをシヴァに任せた。
愛しいユダに頼まれ、シヴァは嬉々としながら自身の服の裾を掴んでいたパンドラの手を解き、その細腕で抱き上げる。
そのまま、いそいそとパンドラを自宅へと連れ帰った。
パンドラをここに連れてきた時には、あんなにあからさまに嫌そうな顔をしていたシヴァの表情が明るくなる。この調子ならゼウスにバレることはないだろうと踏んだのか、あの時の青ざめた顔は赤みがかっていた。
――ちくんっ。
針で軽く刺されたようなわずかな胸の痛みに、顔をしかめた。
「えっと…」
「ほら、早く服脱げよ」
目の前を立ち上る白い湯気と、シヴァの言葉にパンドラは戸惑う。
足元に置かれた樽に並々と入った湯は程よい熱さだった。
早く服を脱ぐように促すということは、湯浴みをしろということなのだろうか。
そろそろと背後のシヴァを見上げると、その通りだったらしく、彼の手がパンドラの肩にかかる。
「服も靴もブカブカで、素足で立たせたりしただろう?このまま、中に入ったらうちが汚れるから」
だから、綺麗にするのだと、シヴァの指先が襟元を摘む。
パンドラの意思を無視して脱がそうとするシヴァの行動に、彼の肩は上下に揺れた。
「自分で脱ぎますから、大丈夫です!」
このまま脱がされたら羞恥に顔から火が吹き出そうだ。
それに、そのまま身体まで洗われたらと思うと身体の奥がゾワゾワした。
恥ずかしいとか、情けないとかそんな気持ちでいっぱいになる。
シヴァの背後に回り、彼の背中をぐいぐいと押して、こちらに背を向けさせた。
シヴァも、ひとりでできるならそうさせた方が楽だと納得したらしく、濡れた身体を布と、自身の服をつめて小さなパンドラでも着られるようにした自身の服を置いて、屋内へと入っていった。
ぱたりと閉められたドアの音に、パンドラはほっとする。
他人に素肌を見られるのは、なんとなく嫌だった。誰だってそうだろう。
親しい間柄ならともかく、パンドラにとってシヴァは今日はじめて出会った人物だった。
けれど、実際はそうではないらしい。
彼らの言い分では、自分は本来成年天使であり、彼らと知り合いであるらしい。
自分は大神に仕える神官という立場にあり、神官たちは皆、自分と同じく少年天使まで縮んでしまったという。
事情がいまだに飲み込めていない。
誰と、どういう関係であったのかも、自分がどういう立場であるのかもわからないでいた。
ただ不安で、怖い。
特に、何で、朝起きたときに裸のシヴァの隣で寝ていたのか、理由を考えることがなんとなく、怖かった。
気づいてしまったら、いけない気がしてならないのだ。
パンドラは小さな自身の肩を抱え、湯に足を一歩入れる。丁度いい温度に冷えた身体が温められ、ほっと息を吐いた。
腰を下ろし、肩まで浸かるように膝を抱えると、湯が呼気で泡立ち、ぷくぷくと音を立てる。
なんだかそれが楽しくて、パンドラは夢中になる。
泡が弾けるたびに、いい香りがパンドラの鼻をつき、首を傾げる。ほんの数滴、香料を込められたオイルでも入れたのだろうか。
あの尊大な態度をとる彼が、そんな気遣いを。
少し、彼と繋がらない気がして、パンドラは眉をひそめた。
そういえば、彼はパンドラの手足が外気にさらされ冷えてしまったと気づいてから、顔をしかめていた。
用意してくれた服も、パンドラの服を弄るのではなく、彼の服を詰めてパンドラでも着られるようにしてくれていた。靴だって、足が小さくても大きくても履けるものを用意してくれた。
もしかしたら彼はその態度に似合わず、優しいのではと思い、パンドラは怖がってしまった自分を反省した。
自分のことを嫌いだったら、きっとこんなに優しくはしてくれない。
そう思えば、何も怖くはなかった。先ほどまで、心の奥をざわざわと騒がせていた不安も立ち消える。
そう信じていた。
「あの…あ、いいにおい」
湯船から上がって、パンドラが恐る恐る彼の家のドアを開けると、食事のいいにおいが鼻をくすぐり、思わずそう呟いた。
ぺたぺたと足音をたて、歩みを進めると、調理をしているシヴァが振り返る。キリン柄のエプロンを翻し、さじを持ったままパンドラのもとへ歩み寄った。
「よく洗ったか…んん?」
少し、笑ったかと思ったらすぐに眉を寄せられ、パンドラの肩が小さく震える。
何か悪いことをしてしまったのかとおどおどするパンドラの手をシヴァはぐいと掴み、良いにおいがする方向から遠ざかっていく。
「あ、あの」
「何でちゃんと髪拭かないんだよ!」
そう言って、どこからともなく出された布で、髪をガシガシと拭かれる。
少し乱暴だと感じるくらいに強く、けれど髪の毛が抜けるほど強いわけではない。
これではまるで幼児だ。自分では少年天使であると認識しているし、もとの自分は成年天使だというのにこの扱い。何だか、心の中で引っかかる。
髪の毛を拭われた揚句、髪を梳かれたパンドラはシヴァに手を取られるまま、椅子に腰かける。
テーブルに出された食事からはやはり鼻をくすぐる良いにおいがして、パンドラの腹からがくうくうと鳴る。
パンドラは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にするが、シヴァはたいして気にした様子もなくシチューを皿に注ぐ。差し出された皿を受け取ると、温かい湯気が頬に触れた。
お腹がすいた子どもに、このおいしそうなにおいは狂気に等しい。頑張って体裁を取り繕おうとするが、腹の音が再び鳴り出す。
「いいよ、先に食べて」
「でも…」
「僕もすぐ食べるから」
シヴァが自分の分を注ぐまで待つつもりだったが、彼はパンドラに先に食べるように促す。お腹がすかせた子どもを待たすほど、シヴァも非道ではない。
いくらパンドラが頑張ろうと思っても身体は正直に動き出す。
パンドラはごめんなさいと頭を下げて、スプーンを手にした。いいにおいがする目の前の食事を、パンドラは頬張る。
少々味が濃いが味はおいしい。おいしいと口にしたかったが、言葉より手が先に出る。
もう一口、もう一口と食べていたら止まらなくなってしまった。空腹ゆえに余計に手は止まらない。
「あ…ごめんなさい」
ムスッとした顔をしているシヴァに、きっと何も言わないで食べ続けているから不機嫌なのだと勘違いしたパンドラは、皿も空になりそうなころ、やっと口を開いた。
すると、向かいに座っていたシヴァが立ち上がり、彼の顔がパンドラの顔に近寄ってくる。
パンドラの心臓がドキリと跳ねた。
「何で謝るんだよ…ああ、もうっ。口のまわり汚れてる」
パンドラの心臓がどきどきと刻まれているとは知らずに、シヴァは彼の口のまわりを布で拭う。
「急いで食べなくても、誰もとったりしないから」
「………」
「何だよ?」
拭いてやっただけだというのにムッとして黙り出すパンドラに、シヴァは彼の真似をするようにムッとする。
「ごめんなさい…」
「だから、何で謝るんだよ」
パンドラは理由を言わないまま、食事を終えた。
シヴァは釈然としないまま食器を片づけ、パンドラを寝室に案内した。自分は用があるから先に寝ろと言って、奥の部屋へと入っていった。
ずきんずきんと胸が痛んだ。
「はあ…」
今朝、はじめて目にした寝台に埋まりながら、パンドラはため息を吐いた。
シヴァのあんな姿を見たこの場所で、どうやって寝ろというのだろう。
あられもない姿を見られたことを忘れているのだろうか―――それとも、どうせ子どもだからわからないとでも思われているのだろうか。
そう思ったら、また、胸が痛んだ。
子ども扱いをされるたびに胸が痛むのだ。自覚はないが、自分は成年天使だったのではないのか。それなのに、子ども扱いをされると、何故か胸がずきずきと痛む。
ちゃんと相手をしてくれて、こんなに世話まで焼いてくれた。きっと、嫌われてはいないだろうなと思う。
失礼な話だが、シヴァは嫌っている相手に優しくできるようなタイプには見えなかった。
だから、きっと嫌われてはいないのだろうとパンドラは勝手に推測している。それも、確認しなければ、事実とは違う可能性だってある。
事実とは違っていたら、自分はどう思うのだろうか。きっと、胸が苦しくて、どうしようもないのだろうと理由もなく思う。
思考がぐるぐるとループし始めたころ、窓から差し込む月の光に照らされる。先ほどとは傾きが違う。どれくらい時間が経ったのか、パンドラは今やっと気がついた。
「あ…」
自分は眠りにつくことができずこうしてしているが、シヴァはいつになったら寝るのだろう。
パンドラがシヴァに眠れと促されてから、大きく月は傾いて、後数刻で太陽が昇るだろう。もう深い時間だというのに、シヴァは帰ってくる気配もない。
パンドラは心配になって起き上がる。もし、用事の最中に寝てしまっているのなら、何か掛けずに寝てしまっているのなら、きっと風邪をひいてしまう。
パンドラに風邪をひくだろうと、乱暴に髪を拭いたシヴァが風邪をひいたら笑えないし、心配だ。
もし、まだ用事が終わっていないなら、世話をしてくれたお礼に手伝おうと、もう月が傾き、朝が足音をたて始めたころ、何をしているのかは知らないが早く寝た方がいいと言うために、パンドラは寝台から降りた。
少し肌寒いから掛け布を纏い、パンドラは足を進める。ズルズルと引きずってしまい、自分が本当に小さいのだと自覚する―――シヴァを見上げなければ、目を合わすことはできない。
もとの自分は一体どんな人物だったのだろう。せめてシヴァと目を合わせることができるくらいには身長があってほしいと思う。そうならば、きっと子ども扱いはされないだろう。
そんな、この現状に比べたら些細なことを考えながら、ぺたぺたと音をたてて、パンドラは月明かりに影が伸びる廊下を行く。
そうやって、一歩ずつ彼に近づいていくと思うと心臓がドキドキと高鳴ってくる。現金なものだ。もし、何か手伝うことができたら、少し話ができないだろうか。もし、一緒に寝ることができたらと思うと、顔が少し熱くなる。
どうして、近づけることが嬉しいと感じるのかわからなかったが、自然と歩く速度は早まっていく。子ども扱いが嫌だと思っていながら、これではまるで子どもでしかない。
それを自覚しながら、パンドラはシヴァが用があるからと閉じた扉に手をかけた。
「シヴァ…、っ」
わくわくとした声音を隠しきれないまま口にした名前は、すぐさま戸惑いに代わる。
目の前に広がる紅がパンドラを襲う。大きなキャンバスいっぱいに描かれている人物の、色を塗られる前の瞳がパンドラを串刺しにした。
「…………これは…、ぁっ…」
視線を奪われたまま一歩進むと、素足で何かを踏みつけた。縛りつけられたように動かせなかった視線は、その時になってやっと動かすことができた。
足元に目をやると、青い絵の具のチューブがパンドラの足に踏みつけられ床を汚していた。―――きっと、瞳の色を塗ろうとしたのだろう。
青い絵の具が落ちていた場所からほんの少し離れた場所に、月明かりに照らされた闇色の髪が床に広がっているのが見えた。
すぐそばには紅の絵の具がついたままの筆が落ちており、シヴァが眠りに落ちる前、何をしていたのかを察する。
―――絵を描いていたのだ。彼の。
パンドラを世話するよりもよっぽど大切なのだろう。見るだけでわかるくらい、シヴァの気持ちがこの絵には描きだされていた。心の奥が急に冷えて行くのを感じる。そうして、冷たさから痛みに代わりずきずきと小刻みに苦しさを訴える。
「……ユ…ダ」
眠りに落ちても、彼の心はすべて、あの紅に奪われているのだ。聞いているだけで切なくなる声で呼び、そばにいるだけで嬉しそうに目を細め、頬を染める。
シヴァにとって、そんな姿を見せる相手は―――ユダだけなのだ。
世話を焼いてくれたのは、彼に言われたからだと今やっと気がついた。自分に対する好意なんて全く関係ないところで、彼は動いていた。
たったそれだけの、わかりきっていた事実にひどく傷ついている自分がいることに、パンドラは気づきたくもないのに気がついてしまった。
優しくしてくれたことも、髪を拭いてくれたことも、食事をする自分を見守ってくれたのも、全て。
そうして、世話を焼くだけ焼いて、逃げるように姿を消した。彼の前では何もかも無意味で、自分は本当にちっぽけな存在でしかなかったのだ。
「……どうしたら、好きになってもらえますか?」
相手には伝わらないと知りながら、思わず口から思いが飛び出た。
自分がもし、成年天使だったとしても、シヴァの気持ちはきっと変わらない。変わらないならせめて、変わってくれるよう努力くらいはしたい。
きっと、自分は数日後には元に戻る。元は成年天使なのだ。元の自分とシヴァは何かしらの関係がある。だから、きっと、今よりは何かができるはずだと―――信じたかった。
「…ぅっ…」
涙がぽろぽろとこぼれて、止まらない。嬉しいと思っていたのは自分一人で、相手には何一つとして伝わってはいなかった。ただ、それだけなのに、どうしようもなく胸が痛かった。子ども扱いされても嬉しかった昼間の出来事が現実ではなかった気がして、どうしようもなかった。
苦しくて苦しくてたまらないのに、全ての原因であるシヴァの手を取り、隣に寄り添った。
ほんの少しでも、心が近付けたら良かった――――。
シヴァは安らかな眠りの中にいた。硬い床に背を預けていたが、窓から差し込む日光が程良くぬくみを与え、寝坊を促していた。
そんなシヴァの眠りを妨げる声が、彼の耳に届く。
「シヴァ!」
パンドラがシヴァの肩を揺さぶる。その身に纏っているのは、神官のそれとは違う白い弛んだ衣服。パンドラには現在の状況がわからないまま―――昨夜の切なさをすべて忘れて、ただただシヴァにこの状況を問いただそうとしている。
何故、自分が神殿に帰っていないのか、どうして床の上で寝ているのか。
パンドラには理解できなかった。
―――小さすぎる気持ちは、ほんの些細な間違いのために簡単に消えてしまった。
痛みすら残さず。
END
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